豊田真由子氏の暴言はエリートの傲慢か?
確かに豊田真由子氏の暴言の一部始終の録音は衝撃的でしたが、桜蔭→東大法学部(ハーバード卒)→厚労省→国会議員といったエリートゆえの傲慢といった話の展開には違和感を覚えます。どちらかというと弁護士の住田裕子氏がおっしゃていた「でも、私から言わせたら超エリートではなくて、準エリートぐらいの人ですね。厚労省に(同期は女性)1人ですけど、本当にそこに入りたかったのか、本当に福祉をやりたかったのか私は疑問です。その後の道のりを見ても、次官コースの超エリートではない。どっかで物足りないものがあったので、政界に転身したのではと、同じ東大だから思うんですけど。」「彼女としては、順風満帆に見えつつも、内心でいろんなたまりにたまったものがあって、選挙のときのも必死なのでドブ板やって、だからちょっとしたミスでもああやって八つ当たりしてるんだなって思いました」という方が本質を表していると思います。
ある程度日本の場合こういった「偏差値的単線価値観」がどこかしこにあって、それにとらわれすぎると不幸になってしまう気がします。「偏差値的単線価値観」でいうと大学は東大>早慶上智>GMARCH>日東駒専・・・>Fランク、東大内でも文系は文I>文II>文III、官庁も財務・経産・総務・警察>厚労・国土交通>その他、国家公務員I種合格で入省しても事務次官>局長どまり>審議官どまり>課長どまり、国会議員になっても総理大臣→大臣→副大臣→政務官→平でしょう。彼女の場合最初の2つでは最高の序列ではありましたが(東大&文I)官庁では第2ランク、おそらく入省後も、事務次官は無理で局長レベルも難しく国会議員の道を選んだのではないかというのが住田氏の見解でしょう。「偏差値的単線価値観」にとらわれればトップ中のトップの財務事務次官や経産事務次官以外はみな敗者でどこか物足りないものを持って生きていかねばなりません。
こういった「偏差値的単線価値観」は別に東大卒だけが持っているわけではありません。日本ではいたるところに存在しています。例えば証券業界でもざっくりいうと野村>大和・日興など大手>準大手・・・などがありますし、どの企業でも社長>役員>部長>課長・・・などがあります。以前ある準大手の証券会社の役員の方と新しい事業方針の話をしていましたが「それは大手さんがまだやっていないのでうちではまだ早い・・・」のような話がでてきていました。別にこういった「偏差値的単線価値観」を抹殺する必要はないのですが、それにとらわれるのは不幸だと思います。私はどうなのかというと元からこのような「偏差値的単線価値観」からは離れていた気がしますが、実はとらわれていたことに気づきました。外資系にいた際は年収にとらわれていて年収が高い=能力が高いと年収をあげようとあくせくして、仲間うちでは「年収の高い方が偉い」みたいな価値観がかつてあった気がします。私自身は当時からお金のかからない人間で高級車にも乗っていないし、家は練馬で安住し、別荘なども求めませんでしたが年棒交渉で年収が上がらないとイライラしていました。
こういった競争が空しくなったことも一つの独立の要因ではありましたが、「偏差値的単線価値観」からは完全な落伍者でしょう。しかし、「偏差値的単線価値観」からはほぼ逃れて精神的には安定し豊かになった気がします。家族にも「いいパパになった」といわれました。当然売上を上げようとか利益をもっと上げようという考えはありますし、多少仲間と比べることはありますが、売上が多い少ないといった「偏差値的単線価値観」だけでは判断していません。自分の物差しが「お客様や仲間をどれだけ幸せにしたか?」「お客様の社長だけでなく社員も幸せ」「社会的貢献はどれだけある」「家族が幸せ」など複線的でかつ偏差値的でないものになったと言えると思います。
組織の中でもある程度の序列があるのは仕方がないことなのですが、きちんとしたレベルの仕事をしている方は尊重されるような仕組みが大切でしょう。例えば優秀な研究者を管理職としては優遇しないがフェローなど称号を授けて尊重するなどは一つの例だと思います。個人の心がけとしても「偏差値的単線価値観」だけでなく「複線的かつ多様な価値観」を持つことが大切でしょう。豊田真由子氏も経歴を見る限り優秀な方であったとは思われますから「偏差値的単線価値観」から脱出して多様な価値観をもって国会議員をされていればその能力を社会のために発揮できたに違いなく残念なことだと思われます。