大学の教養課程なんていらない

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先日木村凌二氏の「教養としての世界史の読み方」という本を読みました。ここでの話は本の内容ではなく木村氏が前文でおっしゃられていることです。最近世界史や日本史について書かれた本は比較的経営者やビジネスマンの間で静かなブームになっていますが実は歴史家(「実証史学の訓練を受けた狭義の研究者」)によって書かれた本がほとんどないということです。一方で早稲田の国際教養学部において語学力はあるが「教養」に乏しい学生に危機感を抱かれています。「愚者は経験に学び賢者が歴史に学ぶ」(ドイツの鉄血首相ビスマルク)と言われるように例えば歴史、特に世界史などは国際的に活躍する人間の教養として非常に大切だと私は思います。

一方で少し前に冨山和彦氏が文科省の有識者会議でL型大学とG型大学に分け、旧帝国大学と早慶などの一流大学以外はアカデミックな教育は止め職業訓練に専念すべきという議論を提起して話題になりました。どちらかというと「Fランクの大学なんていらない!」などL型大学の議論の方が話題になりましたが、私はG型の方を取り上げたいと思います。実は日本に本当のG型大学はあるのかということです。大学では1~2年生では大部分が一般教養と語学で、少し専門科目を必修として行う形態です。全く模範的な大学生ではなかった自分が申し上げるのはやや僭越かもしれませんが、私にとって一般教養と語学は全く使い物にならないものがほとんどでした。例えば世界史的な授業があっても「ササン朝ペルシャにおけるネストリウム派キリスト教徒」のような非常に狭い範囲かつマニアックな内容(イメージ例で実際に存在しているかは問わないでください)を大教室で教授が一方的に話すだけです。試験で問われる能力は如何に自分で咀嚼して自分なりの考えをきちんと持っているかではなく、いかに教授の見地を忖度して答案用紙に書くかという「忖度能力」が問われるだけです。少し戻って木村氏のおっしゃることを考えると、かなりの数の大学教授の方が狭い自分の領域にこもってそこから出て行こうとしない現実が伺われます。木村氏のように専門がローマ帝国史であっても、そこから世界史を俯瞰してどのような影響を与えたか、世界史での位置づけ考えていくようなアプローチであれば歴史を学ぶという意味があります。

まとめると、現状のような教授が狭い自分の専門領域を一方的に話すだけの一般教養は全くの時間の無駄だと思います。これはL型大学だけでなく、G型においても同様です。一定の領域が専門でその部分を中心に授業を行うのは仕方ないとは思うのですが、全体としての学問の中での位置づけをはっきりさせ、学生にその意義や意味を議論させて自分の頭で考えてもらわないと身に付きません。そして、自分の学説以外は一切排斥するような心の狭い態度は教育者として失格だと思います。このような仕組みができないとG型も絵に書いた餅になりそうです。

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教養としての世界史

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